昭和42年12月23日 月次祭
(途中から)
( ? )心からお詫びをするところはお詫びをし、お礼を申し上げるところはお礼を申し上げ、本当にそういう思いを三十一日の除夜祭、その、大祓い、その大祓式に祓うて頂き、または除夜祭に一年に締めくくりであります新年の有難い年を迎えさせていただきますすべての事を(襟をつけて迎えさせて頂きたいと?)思います。そこでその前夜祭の31日に祓うて頂いて、はらえつものを、は、家族中の者の年や名前を書かせて頂いて、祓うてもらう。そして祓う、それだけで済むという事じゃない。年末に一年の( ? )をさせて頂いたというだけではないです。そこで私はお粗末ながら、あとまあ、八日間ほどございますから、八日間をその事の為に一つ取り組ませて頂いてすっきりとした年を迎えさせてもらい、有難い年であったとして今年を終わらせて頂きたいと思います。
どういう意味か分かりませんけれども、私、今日ここへ座らせて頂いてから頂きます、本当言うたら浮き浮きとした調子で頂かなければならんのですけれども、何か重い感じで頂くんです、それがあの、あーだって、「とはいうもののあの人 私が初めて惚れた人」、歌詞から言うても調子から言うてもウキウキとしてお互い、それこそ忘年会にでも出た時のような気持ちにならなければならないのに、私の心に響いてくるのは何とはなしに重々しい寂しい思いであった。どういう事か分からない。分からないけれどもこうやって御説教台の前に立たせて頂きましたから、その事を手繰らせてもらいながら、その事を考え考え、一つ皆さんも聞いて頂き私もその事を一つテーマにして皆さんにお話を聞いて頂きたいと思うのでございます。結論が出ていない、どげんか私分からん。皆さんも考え考え( ? )。
結論を先にまあ漠然とでも申しますなら、本当に今年も締めくくりをです、本当に有難いお年であった、勿体無いお年であった、相済まんお年であったと、その相済まんを、有難いを、を私は心から神様に御礼を申し上げるとこは御礼を申し上げ、お詫びをさせてもらうところはお詫びをさせて頂いて、新しく迎える43年の御年柄を迎えさせて頂く迎えどころというものを作らせて下さる事のためのように、まあ思うのでございます。ですからまあ今年もまあ八日間あるんでございますから、だからその八日間を皆さんここんところに一つ本気で焦点を置いて一つ信心を、いわば締めくくり的な信心を進めて行きたいと思う。
今朝から朝の御祈念のあとに毎朝参ってみえます、今晩も参ってみえとられますが、岡崎さん、丸岡商店のご主人なんです。もう私はまだ信心されるようになってもうやっぱり七、八年にもなりましょうかけれども、その間に浮き沈みがあって、一時はここを疎遠になっておった時代もございますけれども、最近また一生懸命信心がなされておられます。そしてその信心の本当の有難いところ、信心の本当のところを頂いていかれておられるように思う。私今日も申しました。あなたは私共の手本になるようなものを持っておられる。全面的に手本になるということではないけれども、だからそこんところをいよいよ一つ育っていって下さいよというてまあお話をした事ですけれども、今朝からのお夢にです、警察官が悪い事をする。だからその警察官を捕まえて警察に突き出したというお夢を頂かれた。そして自分が懇々とその警察官にお説教をしておるというお夢であった。いうなら悪いことをしないようにというて教えたんです。またその手本にならなければならない、模範にならなければならない警察官を捕まえて、お前のほか悪い事をする奴がおるから世の中が乱れるんだと警察に連れて行って突き出してその警察官に懇々と話をしておるというようなお夢であった。今のあなたがその通りじゃなかろうかと私は思うた。( ? )(先生ばというています?)。ただ(増幅した信者が?)まる( ? )じゃんの、どちらが信者が余計参ってくるか、どうすりゃ信者が余計お供え物をしておるか、と、例えば言いよる、言いよるその、おかげ( ? )をされておるような、例えば先生方であるとしますか、これはまあいうなら警察官のようなもの、岡崎さんに捕まえられて警察に、( ? )に突き出されて( ? )、先生だけではない、長年信心を頂いておる、何十年信心を続けておるというても、やはりそこから一歩もでていないという人がたくさんおるのじゃなかろうかと思う。
その中にも、( ? )、いわゆる( ? )ように、お願い( ? )、お願いというような事やらもう( ? )事なんです。けれども神様が下さるおかげというものは、私共が願うておる( ? )。先日も、御説教、親先生の御説教の中に、本当の信心させてもらやあ、神様が百分のおかげが下されるようなおかげ、先生そういうおかげを頂かなければ本当の事じゃないという事。お願いしておる事を思い通りになるとか、そういうような事だけでおかげが頂けるのではない。そこで最近私は、( ? )毎日、今日は( ? )に参ります。今日はどこどこへ集金、手形が( ? )でございます。もうそれこそ微に入り細にわたって一日一日の事を御取次を願われる。御取次を願われるという事は、( ? )だけで、( ? )である、とにかくそうなりますようにというのではない。そして私は先生が教えて下さるその信心に本気で取り組んでさえいけば、もう本当に思いがけないおかげが、確かに(そのもの信心させて頂く者の?)おかげが現れてまいりますとこういう。私はここんところをおぼえたという事が有難いと思う。それで今朝からもうその事をお届けされるんです。何十年信心してもなかなかそこが分からん。(今度は?)( ? )をしたり、自分の思うように神様に働いてもらいたいという願いを立てる。神様がどうぞあああってほしい、こうあってくれよと願うてござる事には耳を貸さない。岡崎、あってくれよというて下さるそこんところを分かっていく。そこんところを一生懸命に、その、努めていく。先生もう最近不思議な事が次々とある。第一私の家内が、もう本当にお参りもしませんのに変わってまいります。合楽にお参りをすると、とにかく金光様金光様ばっかり言うちから、食べる方はどげんするですか、っち言うてから言いよった家内が、この頃はね、もう合楽に参ると言やあもう本当に、それこそ、もう本当に快う出してくれる。御本部参拝も行った、もう御本部、あなたが御本部参拝しておる内、私だん親子で里の方へ帰っとるけん、その間ゆっくり御本部参拝もしておいで。今度は正月元旦祭のお参りをそう言われた。本当に金光様金光様ばっかり向かってどうするですか、生活の方はと言うておった家内が、最近はです、もうお父さんお金やら物ではないですよ、。本当にあなたが助かって下さる、あなたが幸せになって下さるという、あなたの今の心の状態というものがです、いわば家内やら子供、私やら子供達が幸せになっていく事ですから、もうこれを頂く事が本当に有難いという意味の事を言われました。おかげもどうするのというふうじゃないんですよ。お金じゃないものじゃない。あなたが助かって下さる事、それが私が助かる事につながり、子供達が幸せになっていく事に繋がるのだ。いわゆる岡崎さんの心の中に信心の心、和らぎ賀ぶ心が育っていくという事をです、もう目を見張って奥さんが見ておられる感じです。うちの信心からもし信心を抜いたら、昔のように小さい事にこまごというたり、まあいうなら、信心のない岡崎さんに変えて・?しまわれるという事なんです。これでは私の幸せのなからなければ子供の幸せもない。あなたが合楽通いして下さる事によってです、金やら物じゃない、その事はもう幸せの事には(感心はない?)。まずいわば、もう信心の言葉でいうなら、あなたがおかげを頂いて下さる以外が一番の家庭、世の中の幸せだという事を言われる。もう先生、もう家内がこんな風におかげを頂いていきよりますというて今朝からでした。
お互いがだんだんこう信心をさせて頂いておりますと、確かに、なるほどな、なるほどなと合点する事ばっかりでございます。信心のなかった者が、初めて天地の御恩徳を聞かせてもらう。天地の道理を聞かせてもらう。なるほど人間はその天地の道理に沿うたところの生き方にならなければ幸せにはなれないだろうという事が分かってくる。そしてその道理に沿うて生活しておられる、まあ、御信者の皆さんを眺めていくところにです、なるほど幸せそうに見える。天地の御恩徳などは本当に考えてもいなかった。それは天地に対する心が生まれてまいり、感謝の心が生まれてまいりますところから、日々神恩報謝の生活ができていく、有難いという事が分かってくる。ですから有難いです、分かっただけでも有難いのです。お話を頂いて今日は本当におかげを頂いた。本当に感激しました、感動いたしましたというて帰るけれども、それは長くは続かない。もうひょっとすると帰った頃にはその有難さはどこへか抜けておるような感じもする。何十年の信心を続けておっても、そういうおかげ、または御取次を頂いて願いは確かにおかげになるから、それだからやめられんというて何十年間続けておるというだけの信心では、やはりこういう事になってくるのじゃないだろうか。
先ほどお祭前に、まあ前講を光橋先生が今日は務めさせて頂いた。まあ十四、五分間ですけれどもお話をさせてもらった。参ってきて月次祭、あの、霊神様のご挨拶が済んだ後、先生方が立って皆さんにお話を聞いてもらっておるわけでございますから、皆さんもどうぞ新しいお話です、いきいきとした一生懸命のお話ですから、本当におかげを頂くと思います。ですから八時の霊神様へのご挨拶に皆さんが出られますと、そのお話を頂く事ができられるわけですけれども、どうぞそのつもりで出て下さい、前夜祭はひろこ先生が承っております、八時から。そして終わってすぐお祭にかかる。その光橋先生のお話の中にもです、昨日から心の中に一つも有難いというものが湧いてこない。それが苦しい。どうした事であろうかと、もう昨日からその事を思い続けておる。今日も御神前に出らせて頂いてその事を願わせてもろうたり、考えさせてもらうけれども分からん。火鉢の前に、御広前の火鉢の前につくねんと座らせて頂いておりましたら、とにかくその有難くない事がイライラしてくる。それでもやはりそこんところの追及を探求をさせて頂いておりましたら、北野の秋山さん( ? )、秋山さんが参ってみえた。夕べはあなたのお夢を斯く斯く頂いた。その姉の話を聞かせて頂いておりましたら、今まで私の心の中に無かった有難いものがこう湧いてきた。そしたら次々と昨日は終日お参りがあったとこういうわけなんです。私共がですね、そういうその有難いという事はですね、ただ有難いなあという事じゃないんですよ。もうずっとそげん有難うなからにゃならんちゅうならですね、そりゃあとてもそんなはずがありません、そりゃあ金光様でばしなからにゃでけん。ですからね、そういう例えば本当にもう、金光様が座られただけでも涙がこぼれるように有難い時もあるかと思うとです、本当にこげな事では相済まん、相済まんと思う事も有難い内なんです。本当に有難いもないのに、信心もできませんのに、修行もできませんのに、このようなおかげを頂いて勿体無いなあ、これも有難いのです。ですからもう有難うしてこたえん、有難うしてこたえんというような事がいつもかつも続くというのじゃあない。昨日の一日私の心の中には、こんな事じゃ相済まんな、これだけのおかげを頂いておる事は分かっておるのにもかかわらず有難いものが湧かない、そこから相済まん(事ではないと思い、有難いもの?)が湧いてくる。だからやっぱり有難い。ですからその有難くないからというその有難いものを、まあ男なら酒にでも求めたり、お芝居の見に求めたりしたような事ではおかげにならん。そこをやはり、どうしてこれだけのおかげを受けておるのに有難いものが湧かんのであろうかとそこんところを探求していく。自分の心を深く見極めていく。自分の周囲をいよいよつぶさに調べてみる。
今朝からの御理解の中にも、ああ、今朝からじゃございませんですね。夕べでしたか。昨日の朝でしたでしょうか。信心が中毒症を起こしておるわけです。信心の中毒を起こしてはならない。お酒を頂かせていただきますと、それこそ飲むほどに酔うほどに、ああ、この辺から本筋に入るような感じがするね。酔うた、酔うたと。本当にその、飲むほどに酔うほどに、お参りをさせて頂いてお話を頂かせてもらい有難い。有難い雰囲気の中に浸っておるだけでも有難い。はあ信心ちゃあ有難いものだとこう、心が飲むほどに酔うほどに酔いしれるほどになってくる。もうその頃にはですね、それこそ、自分の好きなものでものし付けててやるごとなってくる。有難くなってくる。暑いも寒いも感じんようになってくる。我情も我欲も本当にもうこれで無くなっておるのだろうかと思うような時がある。それこそのし付けて神様に一切をお供えしてもよいような気がする。ところが飲んだ酒なら必ず醒めるという事なんです。覚めた時、ああ、ありゃという様な時には次には、もう次の日には( ? )しよる。はあ、ここんところですね、今日は。お互いが有難いの、勿体無いのと言うておるけれども、それはお酒を飲んで酔うておるようなものであって、それがまた次の瞬間には、または次の時にはもうそれがなくなっておる。有難い時に、はあ本当に、もう本当にあれも思うことはいらん、これこれもそう心配する事はいらん。もう惜しいものも無かごとなってしまうけれども、ああ、あらと言うておる間に、ちゃんと、私が初めて惚れた人という事になってくるわけなんです。そんなわけにはいかん、ちいうごとなってくる。ああいうところがね、やはり( ? )です。ああ、あらば言うとる間に惜しくなる。
どうでしょうか皆さん、御造営が思い立たれた。皆さんがおかげを頂こうという事になった。私がいくら、私がいくらというてから、投票箱ごたっとに入れた。本当にその事を思うただけでも心がうずくほどの有難さを感じさせて頂いてから、思いっきり奮発して百万円也って書いてみた。ところがだんだん、ああ、あらという事になって近頃は、ああ、あら、惜しゅうなってきた。思い切って離す事ができなくなってきた。これは物やら金やらの場合でもそうなんです。いわゆる本当なものじゃなかったんです。ただ飲むちほどに酔うほどに酔うておっただけ、酔うておるその事に御造営、御造営、御造営に酔うておる時にはそれであったけれども、だんだん時期が経つにしたがってそれができなくなってきた。私共の心からはずしていくのでも同じ事。ここを改まらにゃん、本気で、この有難さを持ってするなら改まれるぞと思うておるけれども、その有難いものが本当のものじゃない証拠にまた元に戻ってしもうておる。そんなわけにはいかん、(内容に?)私のところに、この願も、この改まらなければならないのも、やはり、私のものとして何十年間一緒に生活をしてきておるからなかなか執着があって、ここを改まらにゃと思うておっても改まりができない。
そういうような信心が五年十年、何十年続いてまいりましても、お参りをすれば、お話を頂いておればありがとうなる。ね、そん時だけはありがたい。お取次ぎを頂いてお願いをすればやりおかげを受ける。だからやめられない。酔うたり醒めたりの・・・?ようた時はありがたい、醒めた時にはもう冷め切ってしまって、それでも信心はやめられない。もうすでに信心の中毒にかかっておる信心というのはそんなものじゃない。信心のない人が、薄い人が信心はアヘンなりと言うのもやはりだから嘘ではない。言われても仕方がない。信心とはそんなものではないのだけれどもの、そんなものにしてしまう。信心とは本当に本心の玉を磨くものであり、本質信心とはいよいよ日々の改まりが第一であるという事をです、思い込ませて頂いて、間違いのない焦点に向かって私共が信心を続けていくところに、今日の岡崎さんのお届けじゃないですけれども、願うたごとぐらいの事じゃない、あれもおかげこれもおかげというようにおかげの範囲が広がってくる。そこの焦点に向かって信心を進めていくから自分というものが変わってくる。家内が自分を見直してくれるようになる。これはうちのお父さんから信心を抜いたら、また元のお父さんに返ったら大変だという事にまでなってくるのでしょう。だから私はこれを思います。今度の青年会に今入っております、今度の青年会に今度は発表の時、ここんところを一つ発表させて頂きたい。やっぱり先生が言われる通りです。おかげに取り組むのじゃない、本気で信心に取り組ませて頂きさえすりゃあおかげが受けられるという事実をですね、ささやかな事ですけれどもその事をみんなに聞いてもらいたいと、こう、いうような願いに燃えておられます。何十年信心しても果たしてそこんところにすっきり頂けておる人が何人合楽にあるだろうか。本当に私共が、いわば岡崎さんに捕まえられて警察に放り込まれなければならないような感じがするじゃないですか。反対に、あべこべに。
今日はある方がお歳暮にというて、銀の楊枝を、セットになっておるんですけどね、六本ですか、五本でしょうか、お供えになって下さっております。開けてみたら実に見事ですね。ところがその、後の手入れが大変ですね。あれはね、最後に熱いお湯を通しとかにゃいかんです。そしてそれを( ? )に、あれは竹の( ? )爪楊枝ですからね。もうそういうものはいっぺんいっぺん捨てていっても良いけれども、良いものであれば良いものであるほどに手入れが大事です、という事が書いてある。だからそれが面倒くさいというたら銀の楊枝は使われん事になる。もう信心なんてん面倒くさかつが、もう私だんできんと言やあもうそれまでである、そのかわり自分の楊枝で頂かせてもらう味わいというものはなはずである。私共の信心のですね、私は一年中使わせて頂いた信心が、本気でここ一週間で手入れをさせてもらいたいと思う。熱い湯も通させてもらおう。乾いた布巾で拭きいれさせてもらおう。そして詫びるところを詫び、御礼を申し上げるところは御礼を申し上げさせて頂いて、本当に神様が良うして下さった、私の御礼を聞いて下さったというような気持ちで私は元旦祭に臨みたい。明けてくる43年を迎えたい。42年、振り返らせていただきますとここだけの事でも大変な事であった。大変な年柄でもあった。本当に広大なおかげを信心もできんのに頂いてきた。本当に有難い年であったというだけではなくて、本当にその有難い年であったならあった、大変な年であったなら大変な年であった事にです、私は後の手入れをですね、させて頂いて、それがまた来年に使えれるものにならなければならない。
今日私が御神前で頂きました、まあ、低俗な例でございますけれども、神様の中からどういうような事を神様は私共のここ一週間に求め給うであろうかとこう思わせて頂いてお話させて頂いておりましたら、やはりその事であろうとこう思う。酔うた酔うただけではないけない。必ず酔うた酔うたは必ず醒める。だから醒めんで済むところの道がある。醒めんですむ信心を見つけていかなければならない。ただ酔うた酔うたという信心が何十年続けられても、これは中毒を起こすだけである。信心が止められない、おかげを受ける、けれども、いうなら実際にあの世にも持っていけこの世にも残しておけるというようなもの、真実自分の心の中に有難いものが絶えない、有難いという事は今日私は、詫びる心とか勿体無いという心だと申しました。またそういう時に、そういう時もです、いわば大事にしなければならないという事になる。
今日は、何人も子供さん連れで御礼に出てこられた。( ? )ですか、( ? )。成績表ですね、それで上がった人のところはお礼であり、下がったところは先生に一口御理解でも聞かせて下さい、これが勉強しませんという、このくらいの人というような事であった。それでこれはまあ、その、成績が上がりましたから御礼を申し上げてくだされば、私はもう意味が分からんのですね、私は実感としては。家の子供はいつも悪いばっかりだから。だからその実感なら分かる。どうぞ神様に御礼を申し上げなければいけませんよっち、ここんところだけは私は真から言えれる。これは落第点ばっかりでございます。これはもういよいよいけません。親としても心配である。ところが心配事ではない、御礼を申し上げる事だ、私自身御礼を申し上げておるからそれが言えるのでございます。皆さんの子弟の中にもですね、そんなのがもしあるとするならです、御礼を申し上げなければいけんとですよ。なぜか分かりますか。神様のなさる事に間違いが無いから、これはあまりにも漠然としておりますけれどもね。まあそこに間違いないのですけれども。誰でも、親が子供が、いっちょ勉強ができんにゃよかばってん、でけんとが良かならおかげにならん、できんにゃ良かがと思うものはありません。そう言いながらも私に、できるならできたがいいのです。けれどもできんもんを、さあ、責めてみたところで仕方が無い。仕方が無いから言わんのではない。本当の事が分かるとその事に対して御礼を申し上げなければならないという事なんです。
その事をお届けさせてもらいよりましたらね、亀の背中に、ちょうど浦島太郎が亀に乗るようにですね、若い浦島太郎が乗っておったり、年よりの浦島太郎が乗っておったりするところを頂くんですよ。例えばですね、頭がいい、さあ、大学にいったらもう親の言う事なんか聞きゃしませんよ。もう自分の、またそれだけでいいのですよ、頭のいい人が選んで行くのですから、間違いない道を歩く、歩かせて頂けばいいのですから、そこを願うていきゃあいいのです。ところがんーなら頭が悪い、高校も行かれん大学も行かれん、もう家のとは低能だろうかというような場合でもそれに対して御礼を申し上げにゃいけんのです。そりゃあもう本当に、本当に言うたらですね、あの、頭のいいのよりも早くおかげを頂くという事なんです。例えていうならば、もう私共の子供はみんな頭が悪いですが、私の子供がどんなとびっきり頭がよっくて、さあ大変なという、いわゆるその、私はその、まあ大臣を目指すとか、大将を目指すとかという事になってまいりましてもですね、神様の願い、思いとはぜんぜん裏腹なことになっていくわけなんです。自分が頭が悪い、自分はもう本当にできんのだと、それなら誰も分かる。分かるから親にすがるより頼るより他にない。親にすがる頼るという事が有難いのです。いうならあんた右にせんの、あんた左にせんのと親の言う事を聞くようになる。親の背中に黙って乗る、若い時から乗れるのである。これはよその教会で、例の、本当に頭がいいわけですね、だから今日も金光様の先生になると、お父さんが修行しござる、もうあげんとやらもう普通の者にはできやせん、だから僕は会社員になる、銀行員になるというてなってもです、結局は神様の願いというものがかけられておるから、五十になり六十になりして、またお父さんの跡を、お母さんの跡を継いでおるというのが普通です、神様の働きなんです。もういうなら白髪になって浦島太郎が亀に乗っておるような感じなんです。ところが、学校ができなかったばっかりに中学校卒業したばっかりからお父さんの信心について、そしてお父さん任せになる、お父さんが右と言うように左と言うようになるという事になってくる。信心というものばっかりは頭じゃないのであるから、これです。ですから、もう本当言うたら御礼を申し上げなきゃいけんのです。私はその事を今日、お参りした方に話しました。頭が悪いから親先生任せになるんですよ、私んとこの子供達は。私の子供達はみんなです、あなた方の子供は感心、大きくなったら何になるかち言ったらみんな金光様の先生になる。自分が頭が悪い事は良う分かっとるから金光様の先生なっとにならにゃもうでけんと思うとる。とても金光様の先生でんやっぱ、お父さんのごとおかげを頂きゃいいとこ、夢がある。ですからお父さんが言う通りにいわばなってくるわけなんです。さ、そこで、私が思うこと、皆さんの中にも頭の悪い子供があるならばです、その子供が、お母さん任せお父さん任せにならせて頂く時に、お父さんが間違った道を歩いておってみなさい、それに任せて行ったらどういう事になりますか 、そこでまずお父さんがお母さんが本当の信心を頂いておかなければおかげにならんという事が分かるですね。そうでしょうが。お父さんが間違いのないところを歩いていきよる。そして子供が頭がいうなら悪い。私は頭が悪うなるごと宣伝しよるとじゃないですよ。頭が良かなら良かでおかげ頂かにゃいかん。有難いのです 。けれども頭の悪かとはですね、お前や、どうしてこげん悪かかっちいうてもしようがないでしょうが。仕様がないけんでもう諦めたじゃいかんでしょうが。本当の事をそこの中から分からせてもらう。そこんところを本気で大事にさせてもらう。そこから分からせて頂くもの、そこで子供は子供なりに、自分は頭が悪いからいろんな事じゃあでけん金光様の先生なっとならにゃんというごとなってくる。だからお父さん任せに、例えばこれは私のところの子供ですよ、お父さん任せにならなきゃならん、百姓の子供に生まれながら頭が良かばっかりに大学にいく、もう百姓はしようごとなかごとなってくる、(鋤鍬やら握るごと?)なかごとなってくる。頭がよくない、いわば、高校に行かなかったというような場合でもです、結局お父さんの跡についていくより他にはです、だからそのお父さんが立派な百姓でなからなければ立派な百姓の子供がなれないという事が分かるじゃない。ね、皆さん私は決してもう、勉強せんごとせんでいいというのじゃないですよ。勉強はせにゃできません。せっかくさせてもらうなら覚えもしなきゃなりません。けれども、覚えないような場合であってもです、それをおかげとして頂けれる道なんだ、信心とは。本当の事が分かったらそうなんです。だから子供じゃない、私がいよいよ間違いのない、んなら私が立派な先生にさえなりゃあ、お父さんを目指して、お父さんの、いわゆる親先生任せになってくるところのおかげなんです。しかもまだ子供ながらも若いながらもついて来れる。で、( ? )とです、大学にいった、就職した、跡継ぎが無か、それでもお父さんがもう、よろよろしござるけん、どうでも金光様の先生になってくれというて信者が頼む。仕方が無いから金光様の先生になる、時にはもうすでに白髪になってござる。信心の徳というものは何にも積んでござらんから信者が助からんという事になるのです。子供の時から親先生について修行させてもらうというようなです、おかげを頂くからこそ、私は、だから御礼を申し上げなきゃならんという事。これはいうなら教会とか教師とか、私共だけの例ではない、皆さんの家であっても同じ事なのだから、いかにお父さんがお母さんが本当の道を歩きよらなければいけないかと、これに引っ付いてくるんですよ。頭が悪ければ悪いほどついて、お父さんに、もう負われてくるんですよ、すがってくるんですよ、そのすがられるお父さんが力が無かったり間違った道を歩いてるんなら親子ともども間違った道を歩かなければならないという事になるのですから、それこそおかげになります。だから問題はお父さんがお母さんがまず良い信心を頂かせてもらう。良い信心を頂くという事は、飲むほどに酔うほどにという有難さではなくて、信心を本当のところへ焦点を置いて、岡崎さんが置いておられるというところは本当に素晴らしいと思う、だから、だけども同じという事じゃない。ここに焦点を、間違いのないところに焦点を置いて、いわゆる、おかげじゃない、信心、そこに例えば岡崎さんが言われるようにです、願った事だけがおかげではない、願わん事までこういうふうな広い範囲におかげになってくるという確信がこの頃ついてきた。そしたら神様のお夢の中で、その、ささやかながらもその岡崎さんの本当の信心をです、先生と言われておるような人たちにでも、先輩と言われておる人達にでも、教えてやってくれというような感じがお夢の中にするじゃないですか。捕まえた時警察に連れて行く。お前は教えなければならない立場にありながら、そういう悪い事をしてどうするかというて教えなければならない、その、ような感じでそのお夢を頂いておられます。ですから本当に私共がです、本当のところの焦点を間違えてはならん。そこんところのおかげを頂いていかなければならん。それというて、なら、そこに焦点を置いたからというて、いつも有難い勿体無いというだけじゃない。光橋先生じゃないけれども、寂しゅうて寂しゅうて、どうしてこのように有難くないじゃろうかという時もあるけれども、それを実意をもってそこんところに取り組んでいく。どうしてこれだけのおかげを受けておるのに有難いものが湧かんのであろうかとそこを求めていく。例えて時間で言うなら二十何時間という間は求め続けた。そこへ与えられておるものが有難い。後で考えてみると、そのところもやはり有難いと同じ内容のものである。これだけおかげを受けておるのに有難いものが湧かんちゃあ何という相済まんことであろうか、相済まん相済まん、勿体無い事であろうか、これも有難いに通ずるのである。そういうあり方に私共がなっていく事に努めさせていただけば、これに子供が家内が、例えば岡崎さんの家内がもうここについてくる一歩手前におられるような感じですが、いわゆる岡崎さんの信心に奥さんがもう帰依しておられる。そこんところを私は、まず私が頂かせて、まず皆さんが頂かなければならん。子供じゃない嫁御じゃない、どうぞあなた自身がおかげを受けなければならん。あなた自身がおかげの事ばっかり思いよるけん、嫁御でも子供でもついてこん、と私は言いたい。
本当の信心に目指させていただいて、本当の信心をその事を通して分からせて頂こうという事になってこなければならない。そしてどうぞもういっぺん、私が一番始めに申しました事を一つ皆さんで練ってみて下さい。私共もただ飲んだ飲んだで、その時だけはのし付けてあげましょというごとなっておる時ではなかろうか。そういうものは必ず醒める。醒めると惜しいがついてくる。自分の改まらなければならないものにでも執着がある。そして、やっぱりそれを返せない事になってきた。それでもやはりその飲んだ飲んだの味わいが忘れられないからまた飲む。飲んでいくうちに、その飲んだ飲んだが中毒する。信心が止められんという事になる。やめられん事がいかにも有難い事であるけれども、本当の信心を頂かずして止められんというのは、もう中毒の前提である。本当のところが分からせて頂いて、このままでいきゃあどういうおかげが受けられるだろうか。このままでいきゃあ自分の心がどういう風に成長していくだろうか。このままでいきゃあ本当に生神様へ向かって進んでいけれるという目指しがついておるところの信心、そういう素晴らしい焦点を見出して信心を進めていかなければなりません。どうぞおかげを頂きますように。どうぞ三十一日の大祓式にはね、この一週間のお互いの修行を持ってですね、本当にこの修行を持って御礼のしるしとなりますように、この修行を持ってお詫びさせてもろうて、大祓式を受けようじゃないですか。そして来たる43年を本当に新な有難い心で迎えさせてもらうおかげを頂きたいものでございます。どうぞ